鏡に映るもの
初めての町。日が傾いて薄闇にひたひたと満たされる時間に道に迷ってしまった。住宅街は簡単に方向を失う。とはいえ、ホテルのだいたいの方向は分かってたつもりだった。
まさか道に迷うなんて、記憶にある限り小学生にまで遡る。こんな時に限ってスマートフォンはバッテリー切れ。いつも寝る時に必ず充電するというのに、夕べ充電し忘れていた。
コンビニか交番でもないか探し歩いていると、静かな屋敷が建ち並ぶ中、ピアノの音が流れてきた。
ひとの気配がそこにはある。
ピアノの音に惹かれてふらふらとその屋敷に向かっていた。
生け垣は沈丁花だろうか。もう5月だというのに甘い香りがほのかに漂っている。少し覗く庭はちょっとした植物園のようだった。
鉄製の門扉が誘うように少し開いていた。呼び鈴が見当らない。道を訊ねるために見知らぬ他人の家に入るなどありえない。なのに、この時は、なぜか入ることを許されてるように感じて、ピアノの旋律が流れ出す部屋の前のテラスにまでそっと近づいていた。
部屋には大きな鏡。
アップライトピアノが映っているが、誰もいない。驚いたことにピアノの鍵盤がリズミカルに沈みこんでいる。自動演奏のピアノは聞いたことがあるが、まるでひとが弾いている生演奏だ。血が通っている生っぽい旋律などというのが正しいかわからない。身体がピアノの旋律に反応する。
空気に漂う沈丁花の甘い香りとピアノの旋律に身体を包まれてるのを感じていたら、ピアノの音がぴたりと止まった。
「どうかされましたか?」
部屋から男の声。我に返って無断で他人の家の庭に入りこんだことに慌てていた。
テラスに面した窓が開いて現われたのは、若い、同じ年頃だろうか、20代に見える男だった。豊かで艶やかな黒髪、黒のタートルネックにスリムの黒ジーンズ。華奢に見える身体を黒が包んでいた。白い顔の薄く赤い唇と、細いが真っ直ぐこちらを見つめる黒い瞳が印象的だ。視界が男に奪われてしまったかのようで、声も出せずに立ちすくんでしまっていた。
「こちらで少し休んでいかれませんか。お茶でもいかがです?」
柔らかな声が誘っていた。なにか答えなければ、道を訊ねなければと思うのに頭の芯が痺れたように混乱して、言葉が出ない。
男の手招きに呼ばれるまま、部屋に入った。靴を抜いだ覚えもない。
男の手に引かれる。ひんやり冷たい肌だった。
ふんわりとした笑顔が近づいてくる。男の美貌から目が離せない。細く通った鼻すじが分ける左右が見事なまでに対象的で彫像のようだ。黒髪がはらりと額にかかっていても、目元の光は隠せない。
口元が開いて真っ白な歯と、ちろちろと赤い舌が覗いていた。
身体が熱をもったように力が入らず、足もとがふらっと男によりかかってしまった。
肩を抱かれて男のひんやりまとった空気に包まれる……ひんやり?体温でなかった。
いつの間にかシャツの肩口をそっと広げられたと思ったら、全身の熱が集中したかのように首が熱くなった。頭の芯の痺れが全身に広がる。
意識が薄れる。
大きな鏡にはピアノと立ったまま首から血を流す男がひとり、うっとりとした表情のわたしが映っているだけだった。

